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第四節  奥州胆沢郡白鳥探訪記

とき 昭和五十一年七月十九日〜同二十日


参加者 白鳥郷土史研究会員のうち左の八名


目的 当研究会ではまず最初の研究題として、白鳥氏の調査研究をとり上げてきた。その結果、白鳥 氏発祥の地とされる、岩手県胆沢郡前沢町白鳥を訪ねてみることとした。併せて奥州平泉を探 訪する旅とした。


事前準備 1.宿舎予約 一ノ関簡易保険保養センターを確保。

2.参加会員のまとめと車の準備 参加者十一名、会員の車三台を用意する。但し当目にわかに三名の者親類の不幸のため不参加 となる。

3.事前学習、土海在家公民館において二回実施、安倍・清原・藤原氏の関係。前九年、後三年の 役について。

4.前沢町教育委員会へ依頼状発送。 その結果、前沢町史編集委員長が当目案内説明にあたって下さるとの返事を頂く。


白鳥探訪記
  七月十九目午前五時十五分出発。堺田で「封人の家」を見学、記念撮影。中山平で朝食。鳴子を経 て、池月より左折し、一迫・築館・金成を通り、岩手県に入り、間もなく一ノ関を経て、午前九時半平 泉に着く
  それよりゆっくり時間をかげて毛越寺・中尊寺を見学し、高館に登って北上川.衣川・束稲山等の地 形を観望し、我が郷土との相似をおもい、また義経主従奮戦の跡を偲び、奥の細道の名文などを口ずさ みながらここをあとにして、やがて午後二時半、前沢町教育委員会に委員長を訪ね、そのご案内で いよいよ白鳥郷の史蹟めぐりに出発した。
  まず、白鳥館に向う途中、白鳥川の橋上で前後を遠望しながら前沢町史編集委員長から次のような説明があっ た。 白鳥郷はこの白鳥川流域全部にまたがる大郷で、平安時代前半にすでにその名があらわれてくる。即 ち「延喜式」に「白鳥駅馬五頭を置く」とあり、また「和名抄」には、「白鳥郷」として胆沢郡七郷中 の一つとして出ているように、非常に古く出てくる地名である。
  次に白鳥地名の起源について、ここで前沢町史編集委員長の編集された「前沢町史」に述べるところを抄録してみたい。
  その一は「アイヌ語説」である。「シロトリ」はアイヌ語の「ピラトライ」(川の湖の如く広いとこ ろにある崖Lの転化か、「ピラトリ」(崖の間にある所)の転化でなかろうか。そして白鳥の景観から みて「ピラトリ」の方がよりしっくりしている感じだとしている。
  その二は「白鳥明神説」である。安永六年(一七七七)書上の「白鳥村風土記」に白鳥明神杜の由来が載ってい る。
  「昔、坂上田村麻呂が蝦夷を討った際、胆沢郡の鎮守として、上胆沢郡八幡村に石清水八幡宮を、白鳥村に日本武尊を祀った大鳥之神杜白鳥大明神をあがめ奉って神杜を建てた。よって村名を白鳥村と改 め、以後白鳥を伐つことを堅く禁じた。」と書かれている。
  日本武尊の化身を白鳥とする伝説を起源とする説である。
  その三は望郷説である。前記の「和名抄」に、胆沢郡の七郷が記載されておるが、白河郷・下野郷.・ 常口(ときわ)郷・上総郷・余目郷・白鳥郷・駅家郷である。
  下野郷は下野地方(栃木県)からの移民でつくられた村といわれるように、白鳥郷は常陸国鹿島郡白 鳥郷からの移郷名であるとする説が有力である。
  即ち鹿島から入植した人々は、そこがアィヌ語の「ピラトリ」であったので、望郷の念から自然に白鳥と呼ぶようになったものであろうとしている。
  白鳥館に登る前に、鵜の木に案内される。ここは長根山の山並みが北上川に臨んで尽きるところ、白鳥館との高台によって両側が扼される隘路で要害の地である。現在東北本線はここを通っており、昔の旧道もここを通 ったものとされる。衣の関の位置を今日では大抵の人が関山と高館との間の隘路とするが、前沢町史編集委員長は安倍氏の 本拠衣川柵の北方の守りとして、ここ鵜の木を衣の関とするのが妥当であるといわれていた。但し後に藤原氏の 平泉時代になっては、関山・高館にうつったともいわれた。
  ここはそれほど重要なところであったので、安倍頼時 はその八男行任を配して白鳥館を守らせた。
  白鳥館は北上川が彎曲して流れる断崖上にあり、すぐその北で白鳥川が北上川に合流し、前面は前述の鵜の木の隘路である。
  本丸・二の丸・三の丸の遺構をもつかなり大きな城で あった。二の丸と三の丸の問に空壕があり、その末端は北上川に達している。但し現在は三の丸跡に 家があり、宅地拡張のために空壕は埋め立てられている。また空壕の内側には、数尺の高さに土塁 がめぐらされている。二の丸は現在畑地となっており、眼下に北上の大河を見下ろすことができる。そ の北が本丸跡であるが、数年前、そこが砕石場となり、あわてて採掘を中止させたが、無残にも史跡が 破壊されてしまったと嘆いておられた。
  前沢町史編集委員長からは二の丸跡の現地で、この白鳥館の館主の変遷についてのお話があった。最初の館主は 前述の通り安倍頼時の八男、白鳥八郎行任(又則任とする)であるが、安倍氏滅亡のとき、津軽に逃れ たらしいとする説はあるが、羽州白鳥へ逃れたとすることについては、当地の研究には出て来ない。し かし大いに興味のある研究題であると喜んでおられた。
  白鳥館を下り鵜の木からもと来た道を前沢町に引返して、国道四号線に出、南進して前沢町と衣川村 との間に横たわる長根山を越え、西に入って衣川柵跡を訪ねる。
  瀬原右手の岡の上に天主閣(懐徳館という資料館)を見ながら西進すること二粁の堰下部落から、南へ分れて少し行くと衣川にかかる橋があり、その手前十字路附近が、安倍氏時代の八日市場の跡という。更にその下流に七日市場・六日市場跡があり、衣川柵の安倍氏の城下町としての殷賑ぶりを偲ばせ る。八日市場と六日市場のはぼ中程に「長者原廃寺跡」があり、田んぼの中に大きな礎石が規則正しく 並んでいる遺跡がある。廃寺跡としてはあるが、吉次屋敷跡ともいわれ、正確にはまだわかっていない。少し離れたところに大門址があり、また「接待」と いう地名があり、客を接待した館の跡であろうという。 とにかくこの辺一帯が安倍頼時の館跡(衣の館)と推定 されるとのことである。
  前沢町史編集委員の指さすところでは、方六町もあろう構えと なりそうである。現在は広々とした水田で下流北上川に 向って緩やかに傾斜する地形である。安倍氏はここを本 城とし、鵜の木と関山下に関を構え、周囲の要所に小松 柵・瀬原柵・白鳥柵・琵琶柵・大麻生柵.鳥海柵、黒沢 尻柵、また遠く北に比与鳥柵・厨川柵等を配置し、要害 堅固をきわめ、奥六郡の支配者として絶対の勢威を誇っ たのであったが、前九年の役で源頼義・義家とこれを援 けた出羽の豪族清原武則によって、遂に亡ぽされてしま った。
  以上、白鳥探訪記をつづってみたが、卒直に言って、 わが白鳥氏が奥州安倍氏の末流であるとする確証はな い。「河北町の歴史」でも種々の系図があって、白鳥氏の正系はつかめないとしながらも、「武家評 林」に載る「白鳥(比与鳥)家系図」の安倍氏説が、今日では考証の中心とたっていると述べている。 長久公のめざましい活躍からみて、その系図が或は中条家分派とされ、寒河江大江一族とされ、種々 のものが残されるにいたったが、私は奥州安倍氏説をとりたいと考えるものである。

注)
本文は『白鳥長久公』 (昭和56年 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会発行 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会長著)の記載をもとにサイト作成者が編集したものです。

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