第三節 白鳥城の遺構
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一、お城山 |
お城山は土海在家の背後、標高一九〇mの小丘で、水口の山の神から北へ伸びた丘稜の突端にある。
中世城郭として"山城の姿をかなりはっきりとみることができる。しかしその規模、構造を示す絵図そ
の他の資料がないので、現地を跋渉調査してその遺構を考察するより外はない。 まず頂上本丸にあたるところは、二段になっており、南の最頂部は南北ニ六m、東西四〇m、北の部分は少し低く南北五六m、東西一八mで概ね平坦であ る。西、稜線に続くところを深く掘って、巾一一m一六m、深さ三〜四m、七〜八mの空壕(からほり)をつく り、南・東・北の三面は急斜面となって いる。殊に東側は数メートルづつの土手 が二段につくられており、その下が三段目の郭(くるわ)となっている。この三段目の郭は巾一一m程で、東から北へ、更に西へと頂上本丸部を繞り、空壕西端につづく。そしてこの三段目の郭 から約四〇mの急斜面となって、四段目の郭となる。本丸の北側には深い谷がきれており、この沢は不動尊裏に出る。土海在家の標高が一一〇mであるから、頂上本丸との標高差約八○mである。 この山城部分の規模はそれ程大きいとは云えない。天然の地形を利用して険阻な山城としたものであ る。また他の場合のように石垣で築き上げたところも見当らない。空壕に樽石川の水を引き入れたとす る説があるが、用水堰の遺構からみて、この空壕まで水を上げることは不可能である。また水を湛える 構造、地形ではない。用水堰は、次に述べる館、屋敷のある上野に引いたものと解したい。 この山城は万一の場合の防禦陣地として構築したものであろうが、ここにどのような軍事施設をつく っていたものか、そしてまた果してどんな戦斗を経験したものかなど不明である。この白鳥城遺構から 出土する遺物など今日では発見できないのが物足りない。 |
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二、館・屋敷跡=上野 |
お城山の南前面一帯が「上野」と呼ばれる高台である。東は戸沢小.中学校の敷地から、西は長善寺
羽黒神杜まで、南は水口・樽石線県道にいたる、およそ八ヘクタール程の畑地である。山城の場合、平素はふもとの館(やかた)に住居したものであろうから、ちようどこの上野台地がそれに好適の場所であった。 白鳥氏はお城山に本城を構え、ふもとの上野に館と重立った家臣の屋敷などを割り振り、いわば一つの城下を形づくって、ここを領内の政治・軍事の中枢としていたものと考えられる。 大槙の松念寺は昔白鳥氏の菩提所であったといわれるが、その寺伝に 「鎌倉時代の永仁二年(一ニ九四)一向派の開祖一向上人(一ニ三九〜一ニ八七)の弟子四阿上人 が、上野に草俺を立てたのが始まりで、後、城内三の丸の柳坂に遷り、白鳥氏滅亡後、大槙反田の現在地に移ったという。」 とあり、松念寺は白鳥氏の崇敬を受け、夫人の帰依寺であった。柳坂は今では地形が変って定かでは ないが、小学校南体操場あたりから登る坂であったという。尚、楯岡得性寺の寺伝によれば、得性寺の 本尊阿弥陀如来は伝慈覚大師作の仏像で、もと白鳥十郎の内持仏であったと伝えられる。松念寺の山号 を「大白山」といい、お城山との縁故をあらわしており、その檀家に細谷・矢萩・大沼・高橋など白鳥 氏ゆかりの諸家が多い。 次に戸沢小学校グランド県道側に築かれている石垣であるが、この石垣に用いられた石塊の全部が、 昭和十二年戸沢小学校の統一校舎新築のための敷地地均らし工事の時に、切り取られた斜面から出土し たものである。一体このように大量の石がどうしてこの土層に埋もれていたものであろうか。お城山並 びにその裾まわりの字楯、及び上野の土層には、このような石塊は全く含まれていない。小学校敷地斜 面の切土(きりど)されたところに、昔何等かの目的で集められた石であったろうと考えられる。それは白鳥城か館構築と無縁であったとは考えられない。 更に樽石川上流から山裾を繞って蜿蜒約三Kmの用水堰を掘り、この城郭まで引き水したといううこと は、この上野の館、屋敷に住む人たちの生活用水として、絶対に必要であった為と考えるのが妥当であ ると考える。この堰は途中夜明崖と呼ばれるところがあり、すこぶる難工事であった。この夜明崖は白鳥氏滅亡と同時に一夜にして崩れ落ちたことから名づげられたという。今、樽石の齋藤さんの家 は、昔齋藤藤将監といい、代々この堰守をつとめてきた家柄とのことである。 これまで述べたように、この上野台地一帯は、本丸と一体をなす白鳥城の一郭で、かつて元戸沢中学 校長平三郎氏が、中学校の建つ高台に「城址が丘」と命名したことは、まことに適切である。 |
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三、三つの森 |
白鳥本城の北に、鳥屋森(とやもり)・毛倉森・柏木(かしやぎ)森の三つの峯がある。何れも本丸から望見でき、また各々互に望見できる関係にある。総称して三つの森といい、以前、近郷近村で興行された花角力に出場する白鳥の力士は、白鳥十郎の武勇にあやかって「三つの森」の四股な(しこな)で出て活躍したものであ
る。この三つの森はそれぞれが烽火場(のろしば)で、昔、火急の際の合図に薪を焚き、煙をあげて知らせたところである。 鳥屋森は、新田地区の西にそびえる標高二八四mの三角山で、ここからは、北は富並・大石田・尾花 沢まで、南は谷地・天童・山形まで、村山平野を展望できる。見張所として絶好の地形である。「鳥屋」について、安彦好重氏の「山形県の地名」には、五つの語源をあげて、その一つに「鳥を捕えるた めの小屋」という意味かあることを述べている。また鳥のつく地名は、鷹を捕えたり、訓練したりした ところであるといいう。鳥屋森の地形はまさにこれらのことがしっくりあてはまるところである。それ で鳥屋森は烽火場であり、鷹狩りの場所であり、鷹の訓練場所であっただろうと考える。 毛倉森は、宮下八幡宮の南の高所で、この辺一帯は、昔、宮下八幡宮をはじめ、円福寺・月山権現・ 善住院・頓善寺その他の社寺かあった神聖な場所であった。 柏木森は、最上川が大彎流して西につきあたるところ、河岸より数十メートルの高所になっており、 東前面は最上川、西の尾根は葉山につづく山岳地帯である。北には油沢(あぶらさわ)の深い沢がきれており、高所頂上部に二重の空壕が設けられ、西からの正面に土塁が左右袖になっていて、中央か出入口になっている。ここがこの砦(とりで)の大手で、以前、門柱の礎石らしいものが見つかったといわれている。この柏木森は 小規模ながら、まことに要害堅固な「出城」である。 一体、白鳥城の備えは北に厳しく南に緩いようにみえる。どういうためかよくわからないが、東はい うまでもなく最上川があり、しかもそこは碁点・三かの瀬・早房の三難所がつらなる急流で、天恵の防禦線とたっており、また北方に対しては鬼甲・柏木森の天険を利して備えておげぱよく、南はこれとは異なり、閉鎖よりはむしろ交流が、戦略的に重要であったと思う。村山郡諸大名との外交、政治接 渉、特に寒河江大江氏との連携共存が大切で、その中で自己を守り、勢力拡大をはかる構えであったと 考える。長久の谷地進出はこのような中から果し得られたものであろう。 |
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四、碁点城 |
樽石川が最上川に合流するところ、大槇字川口(かんぐち)にある楯跡で、北に濠、西に土塁をめぐらし、南は樽石川、東は最上川の断崖で囲まれ、対岸には碁点山がそばだち、山腹に古松の岩山に這う姿が直下の清流に映えて、風景絶佳のところである。 ここはいわゆる碁点の難所で、川巾狭く、河中処々に岩石あらわれ、急流をなして流下するところで ある。 西、白鳥の本城へは直通の道があり、これを「楯道」といった。今もこの道筋はほぼその跡をたどる ことができる。昔はこの楯道にそうて人家.が立ち並んでいたという。 云い伝えによれば、ここは白鳥長久(またその父義久ともいう)が、その親のために築いた隠居所で あるといわれ、また、春の花、秋の紅葉を観賞した「花見御殿」であるという。戦塵をはらい、遊楽の 宴を張り、或は文雅の道をたずね、親に孝養をつくす長久の人柄は、まことに風雅で奥床しい限りであ る。 この花見御殿はまた「碁点城」(御殿城)とも呼ばれ ることからみて、より以上に軍事的な目的を担っていた ものと考えられる 一体、最上川舟運の発達は、最上義光の天正・慶長の 碁点開削から論ぜられるのが普通で、それ以前について はふれないので、少しも舟運に利用されることがなかっ たような印象を与えるが、勿論最上川全線の河岸(かし)、通船制度がととのうようになるのは、最上義光の村山・最上 ・庄内の領有達成以後、江戸期に入ってからのことであるげれども、「最上川のほれは下るいな船の……」と古歌に読まれた古い時代から、重要な交通運輸の動脈として利用されたことは当然である。 碁点城は一つには東側への固めとして、一つには最上 川交通のおさえとしての任務を担っていたものであると 思う。 |
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五、日影楯・羽黒堂 |
元稲下小学校訓導であった根本政吉氏の編者になる「戸沢風土記」(明治四十一年)によれば
「樽石の東部、稲下及長善寺との境にあり。白鳥十郎長久の老臣長善寺右馬頭の楯であるという。 楯の南にある字的場は長善寺氏の矢場で、また楯を去る二町、桜田というところに一つの塚あり、これは右馬頭の墓であるという。また往年下楯開墾の際、鉄茶釜二個掘りおこし、今尚存す。この釜は長善寺氏が茶の湯に用いしものにして、天正年中落城の際、そ の堀に投げこみたるものと云い伝えられる。また樽石川上流字北に夜明崖という処ありて、深き川底の処々に、大いなる埋木数多あるを見らる。これ昔白鳥氏の落城と同時、却ち夜明け方に、深林の崩れて大木の埋まりたるものなりと云う。」 と記されている。今は地形変わり、楯跡は定かでない。 羽黒堂 長善寺羽黒堂(明治初めの神仏分離により今は羽黒神杜)に奉納された古写経か遺っている。この写経を手がかりに羽黒堂と白鳥氏との関係について、一つの仮説を立てて諸賢の参考に供しておきたい。 この写経は、大般若波羅密多経六百巻のうち、わずかに遺った数巻に過ぎない。そのうち市内にあるのは、完本二巻と残欠本三巻である。「巻第五百九十 一」巻末の奥書に 奉加 羽州村山郡小田嶋庄垂石郷 羽黒堂 右発願志趣者為信心大法主心中 所願二求両願皆令満足所啓如斯 貞治三年初秋中旬 沙弥信m と記されている。 貞治三年は北朝年号で、南朝年号では正平十九年(一三六四)である。最上氏の祖斯波兼頼が、出羽按察使(あぜち)として山形に入部 したのが、このわずか前の延文元年(一三五六)であるから、この写経はまさに南北朝争乱時代に行われたものである。 この羽黒堂写経はよく岩波の石行寺写経と比較される。両写経とも殆ど時代を同じくし、県内最古の写経として重んぜれる。石行寺写経は一筆経といわれ、殆ど同一人の書写で、完成までに二十数年を要 している。料紙旦那は数人を数え、土地の有力者である。現在百十余巻を残している。 羽黒堂写経はわずか数巻しか現存しないので、その全容を知ることはできないが、その数巻について みるに、書写した人は比丘尼正吾・沙弥信m・妙圓とさまざまである。 ここで注目したいのは、前記奥書文中の「信心大法主」とは、どういう人物であろうかという点である。普通、法主といえば一宗の管長職の意味に使われるが、ここではあてはまらない。「広辞苑」の解説のB法会の主宰者の意を援用して、納経の発願者と解し、しかも写経という大事業を発願して、人と 物資を集約できる「信心大法主」は、土地の豪族即ち白鳥氏であっただろうとするのが私の仮説であ る。 |
注) 本文は『白鳥長久公』 (昭和56年 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会発行 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会長著)の記載をもとにサイト作成者が編集したものです。 本サイトの内容を、無断で複製・改変することは禁止いたします。 |
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