第二節 白鳥を本拠とする
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一、白鳥氏の系譜 |
前節で最上家内紛にはじまる戦乱に際し、白鳥長久が、伊達輝宗の勢威を背景に和平斡旋に乗出して
大活躍したことが、伊達氏の記録によって明らかであること、及び白鳥長久の書翰が山辺専念寺に所蔵
されており、中央の権力者織田信長への親近をはかり、この地方の覇者たらんことを志した偉大な人物
であったことをうかがい知ることができた。 戦国時代末期、このような活躍をした白鳥長久の出自はどんなものであったのか。家系についても、 父祖歴代についても遺憾たがらよくわからない。白鳥氏系図にしても種々あり、そのどれをとるかは人 によってまちまちである。「河北町の歴史」ではその一々について詳しく考証しているげれども、結論 をさけている。ただそれらの中で遠祖を奥州安倍氏とする説を有力としている。私は白鳥地名の由来、 この辺一帯の地形と奥州胆沢郡白鳥郷の相似た景観、出羽の覇者を目ざした遠大な志は、かつて北方の 王者であった安倍氏の末裔としての誇りであり、また一書に「城取十郎武任」と「任」の一字を名乗り 用いたとあることなど、いろいろの点から考えて安倍氏説をつよく推進したいと考えるものである。 即ち前九年の役(一〇五一〜一〇六二)で、源頼義・義家によって安倍氏が滅ぼされた際、頼時の八 男行任の子則任が出羽にのがれ、葉山に入って時節を待ち、いつの時代にか、やがて山麓に下り、葉山修験の勢力を背景にして、漸次勢力を蓄え、土地の豪族となり、白鳥氏を称したものであろうと考える。もちろんその長い過程の中では、河西の名門寒河江の大江一族と極めて親しい関係を保ちながら、 共存を図ってきたものであろう 昭和五十五年八月発行の「ういずY」誌「谷地八幡宮のあゆみ」の項で、「応仁の頃より白鳥氏が葉 山々下の白鳥村に本拠を構え、大いに当宮を崇敬し信仰を整えらる」と記し、白鳥本城構築の年代を応 仁ごろ(一四六七)と推定している。これは安倍氏系図の種林寺殿瑞公因幡守義守、茂木家系図の頼重 の時からとするもののようである。 葉山の山麓、この白鳥に本拠を構えるにいたった年代を知ることはむずかしいのであるが、これを推定する手がかりとして、宮下八幡宮並びにそれと関連する遺物及び白鳥城の遺構を考察してみたい。 |
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二、宮下八幡宮 |
宮下八幡宮は後に白鳥長久によって谷地に遷され、谷地八幡宮となるのであるが、谷地八幡宮の縁起では
「創立遠古で詳かでないが、寛治五年( 祭祀を行う。」
一〇九一)源義家・武衡・家衡平定の後、 報賓のため大いに祭祀を行う」
とあるが、詳細は不明であるとしている。(河北町の
歴史) 宮下八幡宮がいつ、誰によって創建されたかは不明で
ある。げれどもこの地の豪族白鳥氏によって、武神とし
て、また領内の鎮守として尊崇され、護持されて栄えて
きたものであろうことは疑いのないところである。領主
白鳥氏の尊信と経済的保護、白鳥、大槙、長善寺、垂石
等の領内村々を氏子とし、別当円福寺外十余カ寺の寺
院、修験を従え、門前に集落を形成して段賑をきわめて
きた八幡宮ではあったが、今はそれを裏づげるものはほ
とんど無い。僅かに残るものとしては宝篋印塔と六面幢
及び板碑残欠などがある。 |
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三、石造遺物 |
(一)宮下宝篋印塔 宝篋印塔は、元来「宝篋印陀羅尼経」を納めた塔であ ったが、鎌倉時代以後は供養塔として造立された。 同経の説くところによると、「若し人この経を書写し て塔中に置かば、この塔は一切如来の金剛蔵の卒塔婆と なり、また一切如来陀羅尼秘密加持の卒塔婆とならん」 と説き、そして「この塔に一香一華を供え礼拝供養すれ ば、八十億劫生死重罪が一時に消減し、生きている問は 災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれかわる」とその功徳が説かれている。 その構造は基礎.・塔身・笠・相輸の四つの部分から成 り、相輪以外はみな四角である。宝篋印塔の塔身は本尊 を意味するが、初期のものは四面無地のものが多い。またこの塔身が長い程古式を表わしているとされる。笠は階段状に刻まれ六段作りが普通で、笠の下は二段に刻まれて塔身の上に置かれる。笠の四隅には隅飾(馬耳状突 起)が設けられているのが特色で、この角度が垂直に近 い程古い様式とされる。 この宮下宝篋印塔は、月山権現堂前約百m、参道北側にあり、高さ一・一八m、九 輪及び基盤を失い、露盤上に宝珠をのせている。 笠が厚く、塔身の巾が大きく、素朴雄大である。笠の馬耳形突起が直角に立っているなど古式を表わ しており、鎌倉時代の造立と推定される。塔身に種字や文字は見えず、造立の由来は不明である。 (ニ)宮下六面幢 六面幢(六角幢)に重制と単制の二つの形式があり、重制は基礎・竿・龕部(がんぶ)・笠・宝珠よりなり、単制は基礎.幢身・笠・宝珠の四つの部分からなる。 六面幢が普及するのは室町時代に入ってからで、地蔵信仰と結ぴつき、六地蔵を各面に彫り出した重 制石幢が作られるようになる。さらに江戸時代前期になると、龕部の中をくり抜き、石仏像を安置する 重制石幢の形式がとられ、江戸時代後半からは、六地蔵を刻んだ単制のものが作られるようになり、最近まで造立がつづき、路傍や寺院の入口や墓地などに安置されている。 この宮下六面瞳は、宮下の北の入口にあたっている。土地の人はこれ を六角地蔵と呼んで信仰している。六角形の笠石と幢身から成り、高さ約一・三五m、地下埋没部分が かなりあり、そのためか丈は低いが、幢身は一面の巾が約三十二センチメートイル、周囲が約百九十センチメートルと非常に太く壮 大である。各面の上部に、巾八センチメートル、高さ十八センチメートルの矩形の穴が彫られてあるが、仏像や種子らしいものは見当らない。 川崎浩良著「出羽文化資料」によれば、南北朝から室町時代にかげて地蔵信仰の盛んになった時期の ので、六面幢初期の形式を示しているとしている。 その外に三基程の板碑があるが、造立の年代及び由緒を推定するまでに至っていない。宮下八幡宮の鎮座した跡は、今、杉の木立の中にある。そのうす暗いところに八幡池と称する古泉の跡があり、その傍に小さな祠が建っている。祠の中には正面のお厨子に板碑頭部残欠と思われるもの が、御神体として祀られている。祠の右手に大きな板碑が三つに折れて半ぱ土に埋もれて倒れている。刻字してあるようであるが、風化のために判読困難である。この境内の入口に苔むした古い石段が残っ ている。 この八幡宮址の近くの畑地がもと別当円福寺のあったところと伝えられる。また南に毛倉森があり、そのふもとに頓善寺があった。今もその跡を寺屋敷といい、頓善寺の山号を宮下山という。この寺は、 縁起によれば白鳥家減亡後、貞享元年(一六八四)北畑の現在地へ移転したという。 また八幡宮址の北隣に、宮下地区で祀る月山権現堂がある。本尊は月山神の本尊仏阿弥陀如来である が、中央の座を、小松均画伯少年時代作るところの月山権現木像二躰奉安の厨子にゆずっている。古い 堂宮で、善住院はこの月山権現の別当であったという。宮下八幡宮の谷地移遷のとき、別当円福寺をは じめ、善住院その他の十余カ寺が、随伴して谷地に移った。 以上、白鳥氏の崇敬した宮下八幡宮の創建年代を推定するために、それと関連する石造遺物の造立年代 を考証して、室町時期か或はもっと遡って鎌倉期に想定することも可能ではないかと考えるのである。 |
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四、白鳥城構築について |
白鳥氏がいっごろからこの地に根づき、どのような経過をたどって戦国末期の長久時代に推移してき
たものか、記録の上ではほとんど手がかりがない。前項で述べたように、僅かに残る石造遺物による考
察とか、また白鳥城遺構の調査などの方法にたよる外はないようである。 白鳥城遺構に就いては次節に述べることとして、ここでは概説にとどめたい。 白鳥城が「やまじろ」(山城)の形式であることからみて、戦国末期以前の構築であることは疑いが ない。 「山城」は元来山頂や山腹などに築いた城で、山頂部を中心として階段状に郭(くるわ)をつくって 域を構成する。本来山の険しさを利用するものであるから、舌状台地の先端とか、山稜の突出した尾根 の先端などを利用して設げられる。 日本では古代にもつくられたが、中世にはほとんどが山城である。平常はふもとの根小屋(館 やかた・屋 敷)に住居し、戦斗の時山城に拠って防いだ。しかし、戦国時代末期になると、大名領国制の進行、戦 法、兵器の変化によって、だんだん「ひらじろ」(平城)が築かれるようになってくる。 白鳥城の場合、まさにこの山城築城の法則がそのままあてはまる。即ち長善寺背後の山並みが北に伸 び、水口の山の神の峯からの稜線がさらに北に伸びた突端で、ごの稜線を深い「からほり」(空壕)で 思い切り断ち切り、前面に三段または四段状に郭をめぐらして、堅固な陣地を構築している。うしろに は深い谷がきれており、清冽な水が流れている。 この小丘の頂上を本丸とすれぱ、その裾にあたるあたりが、二の丸ともいうべき場所で、いろいろ戦 術上の施設が設げられていたのではなかろうか。今でも「楯」という字名が残っている。 本丸の南麓一帯の台地は「上野」と呼ぱれる高台景勝の地である。現在は広々とした美事な果樹園と なって、土地の人たちにより経営されている。昔、白鳥氏が、この台地まで樽石川上流約三Kmの地点か ら分水し、用水堰を掘って引水をしたのは、この台地一帯が館(やかた)や屋敷を構えた、いわぽ城下であったか らであろう。しかし今では昔の「館跡」「屋敷跡」を語るものは無く、四百年の時の流れに感慨を深く するのみである。 これまで述べてきたように、一つには宮下八幡宮の創建と、二つには白鳥城の構築とから推定して、 白鳥氏がこの地を本拠とするにいたったのはかなりに古い時代で、長い問にわたって、土地をひらき、 領民を撫育し、武を練り、漸次力を養い、戦国末期長久の時代を迎えて、中原に雄飛しようとすると き、強敵最上義光の謀略によって、遂に中道にしてたおれたのである。 |
注) 本文は『白鳥長久公』 (昭和56年 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会発行 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会長著)の記載をもとにサイト作成者が編集したものです。 本サイトの内容を、無断で複製・改変することは禁止いたします。 |
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