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第一節  白鳥長久の活躍


和紙 一、最上家内紛に和平仲介
  最上義光は天文十五年(一五四六)山形城主義守の長子として山形城に生れた。父義守は長子義光の 激しい気性を嫌って、次子義時を愛した。当時長子相続制はまだ確立されていなかったとされるが、父 義守は義時を家督としようとしたので、義光、義時父子との対立となり、この最上家の内紛は最上家部 将の抗争となったばかりでなく、伊達輝宗、武藤義氏等の内政干渉をも誘う結果とたった。幸い老臣氏 家尾張の諌言によって親子の和解となり、義光家督に決し山形城主となった。元亀元年(一五七〇)五月である。

  弟義時は中野域主となったが、すこぶる不満で兄義光とことごとく対立した。天童、高擶、東根など の最上一族は、義光の権力拡大をおそれて、多くは中野義時を支援した。伊達輝宗も義時を援げた。 天正二年(一五七四)五月、中野義時は伊達輝宗、天童、高擶、東根、蔵増、寒河江、左沢、白岩な どの後援を得て、兄義光と戦いを開くに至った。この戦いの経過については省略するが、ここで重要な ことは、白鳥長久が伊達輝宗に働らきかげて、この紛争を和解させようと仲介の労をとっていること が、「天正二年伊達輝宗目記」に記されていることである。

(一)伊達輝宗日記
  「伊達輝宗日記」は天正二年正月から同十二月にわたる日次記であるが、極めて簡潔な記述形式をと っている。天気模様を記したあと、主として脚夫、軍使や書状の往来、授受たどについて記し、会津、 田村、白岩、桑折、石母田等、奥羽近隣諸大名との軍事上の往来について、が大部分である。正月から種 々の記事があって、八月ごろから白鳥長久の和平斡旋活動が始まっており、その閨霜月(十一月)廿四日の条に

廿四日天気雪少つっふる、又よし、むまの時ない(地震)つよくゆる、白鳥(長久)所より脚力(使者)参侯、もかみ無事き よくなきとて、てきれ申へく侯分のととげ、夜佐源所へまかり侯、よあけかへり侯、よる雪ふる

 
これは、同日記の十九日の条に、山形から書状、が届き、天童と和解したこと、が通知されており、廿四 日の条では白鳥長久からも無事におさまったことが報告されたものである

(ニ)性山公治家記録
  次に同じく伊達氏の記録である「性山公治家記録」によって、長久公の活躍をみることとする。性山 公は伊達輝宗で、性山輝宗、貞山政宗、義山忠宗に関する「治家記録」は、綱村時代、元禄十六年(一 七〇三)に完成したものである。
注)○数字は筆者、仮に付す
(→編集者A.〜H.に変更)

A.
天正二年、八月廿七日、白鳥十郎長久一-遠藤内匠所へ書状差遣ス・其趣、其口へ御出馬御大義ナ リ、各御異(意)見ヲ以テ早速御本意ヲ備へ肝心ナリ、内々此等ノ趣即刻申談シタキトイへトモ、諸口路次 不通故二延引二及ヒヌ、誠二本意ヲ失へリ、然レハ当口弓箭ノ事、各相談ヲ以テ無事ノ扱アリ、然レ トモ天童ヲ始メ一味中不通二申払ヒ、今ニ於テ無事ニ属セス、旧冬ヨリ草刈内膳ヲ以テ余儀ナク申合 スル上ハ、去迚ハ御合力畢寛頼入ル、然ラハ一味中ノ者、末代御家ヲ守ル外事ナシ、最モ御手透ナク 御助勢ナキニ於テハ、御使節ヲ差越サレ、一味ノ者共本意ノ様ニ御執刷(とりつくろ)ヒ賜ルヘシ、何篇仰定ノ首 尾、一箇条顕サル事偏二頼入ノミ、其許ヨリ相棄ラレハ、爰許ノ拵ヲ以モ早々無事ニ仕ルヘキ哉、御 報委ク承ルヘシ、相馬(盛胤)ヨリモ六月始ヨリ使者山形ニ遣シ置キ、懇望セラレシ事其隠ナシ、当口無事落 着セハ、相馬ヘ義光懇切ノ躰モ有ルヘキ歟、尤中野(宗時)常陸、牧野(久仲)弾正使モ詰居レリ、呑口ニ於テ御気遣 ノ義ハ有ルヘカラストイヘトモ、先以テ相馬ロヨリ山形ヘノ旨趣ハ如此ナル由、著セリ

B.
九月甲戊大朔日壬申、御和睦ノ義二就テ、当家ヨリ亘理兵庫頭殿元宗、義光ヨリ氏家尾張 諱不知、 途へ出合ヒ相談ス

C.
四日乙亥、当家ヨリ草刈内膳、義光ヨリ里見民部、途中二出合ヒ御和睦ノ相談アリ

D.
九目庚辰、亘理兵庫頭殿ト氏家尾張出合ヒ、和議調ヘリ

E.
閨十一月十九日庚申、最上殿義光ヨリ書状ヲ以テ、天童和泉守頼貞ト和睦セラルノ由仰進セラル、東根(村山郡)、西根ノ輩義光へ和睦ノ義、公(輝宗)ヨリ御計ラヒ有シト見ヘタリ

F.
廿四目乙丑、午刻地大二震ス、・白鳥十郎長久ヨリ飛脚ヲ以テ、義光東根.西根ノ輩ト和睦ノ会釈 甚タ宜シカラス、再ヒ兵ヲ起スヘキノ旨言上ス

G.
十二月十目庚辰、高擶某、天童和泉守ヨリ飛脚ヲ以テ、某等義光(最上)ト和睦ノ義二付テ不快ノ事アリ、 再乱二及へシト言上ス 此後義光ト東根・西根筋ノ輩ト和睦ノ義終ニ不済、鉾楯年久シト云フ、此ノ年ノ日記今二伝ル、因 テ其大略ヲ採テ録ス、模様前後の記録二異ナリ

H.
天正九年五月九目壬申、最上谷地城主白鳥十郎長久ヨリ遠藤山城(基信)方へ書状差遣ス、其趣、相馬口御 出帳御大義ナリ、次二大崎左衛門督殿義隆今度愛宕へ立願ノ事有テ上洛セラル、相馬口御通リ有タキ 由被存ノ処二、御弓箭故路次不通ノ様二聞及ハレ、長井口通ラレタキ旨仰聞ラル、路次中無相違様二 仰付ラレハ満足タルヘシ、当月九目首途(かとで)ト承ル、程有ヘカラス、委細御報二待入ノ由、著セリ

A.は天正二年八月廿七目、白鳥長久から伊達家の重臣遠藤基信へ宛てた書状の要旨で「和議のことに ついて取急ぎ相談したいとは思うが、路次不通で延引し残念である。今度の戦いのことでは各々相談の 上、何んとか無事におさめようと努力しているが、天童始めそれに味方する者の中で、和議に同調しな い者があって、無事におさまらない。そうとしても、旧冬以来内膳と充分協議を重ねてきたことである ので、ご多忙のところとは思うが、無事におさめて頂きたくよろしくお願いする。ご返事委しく承り たい。」というもので、伊達氏の強い斡旋主導を要請しているものと考えられる。

B.〜C.は九月に入って、伊達、最上両家から亘理、氏家など重臣を出して、途中の場所で和睦のこと を議し、九月九日に和議が調ったと記している。

E.は和議調停後も強硬派である天童、東根、西根との間はしっくりせずにもめていたが、輝宗公のお 計いによって、ようやく閨十一月十九目に至って、和睦調った旨最上義光から書状で知らせがあったこ とが記されている。

F.は右の和睦調ったという知らせのわずか数日後、廿四日至って、白鳥長久から、義光の東根、西根の者たちに対する和睦の挨拶、態度が甚だ不遜でよろしくなかったので、再び兵をあげて義光を討っ べきであるとの進言が、飛脚で届けられた。

G.も右と同様の趣旨の飛脚が、十二月十目、高擶と天童とからきて、和睦の事で甚だ快からず思うの で、再び義光を討たなげればならないと申し上げてきた。 この後、義光と東根、西根の人々との和睦のこと、ついにととのわず、久しい間戦いがつづいたと いうことである。此の年の日記(伊達輝宗日記)は今も残っているが、ここでは前後を少しちがえて その大略をとって記したとしている。

H.は少しはなれて天正九年五月九日の記事である。すなわち白鳥長久は伊達氏の重臣遠藤基信に書状 を送り、奥州大崎義隆が愛宕杜へ立願のため上洛したいが、相馬方面が戦争のため路次不通のようなので、置賜通過の便宜をはからつて頂きたいと申している。何分よろしくお取計い下さいますれば有り難 いという趣旨の手紙である。




和紙 二、白鳥長久の活躍について
  以上、最上家内紛を起因として、村山郡内の大小名が義光に対する反感から、その殆どが中野側につ き、その上強力な伊達輝宗が、岳父義守を救援する名目で、最上家の内政に干渉し、郡内諸将を伊達の 影響下に組織しておこうとする思惑などもあり、更に庄内武藤氏も虎視耽耽と村山をねらっている有様 で、その推移如何によつては、村山郡の大乱となるおそれもなしとしない時に、敢えてその調停に乗り 出したのが、わが白鳥長久である。これを諸書では、伊達輝宗の勢威を後楯として、この紛争を調停 し、郡中の主導権を確保しようとしたものであろうと位置づげる。たしかにその一面はあろうと考えら れるが、まだその時点では後年のように最上と両立し得ない関係ではなく、郡中の平和と諸大名の安泰 をねがっての調停活動と考えたいのである。但しその後の領国化を強行する義光の行動と、中央におけ る全国統一機運の進行の中で、長久の覇権をねらう夢は漸次育くまれて行ったものであろうと考える。

  それにしても、河西の一角に拠る白鳥長久が、大きな対立抗争の中で、局外の地歩を保ちながら、伊達輝宗を動かして調停に立っということに、長久の偉大な実力と智謀を考えるこができると思うので ある。

  しかもこれら一連の活動の根底に、周到な情報蒐集と適確な情勢判断があり、それにもとずく行動で あることに感嘆させられるのである。戦国争乱の時世においては、何れの大名自衛のため或はまた勢力拡大のために、絶えず諜報活動につとめたものと考えるが、白鳥長久の場合は、郡中諸大名に比し て、村山の枠を超えた遠大なものであったと考えられる。

  即ち伊達氏の奥州南部におげる活動を知悉して、その実力を適確に把握しており、その一族家臣など の内部事情にも精通していること、また奥州大崎氏の置賜通過を斡旋していいることからみて、その他の 奥州諸大名とも何等かの脈絡あったのではないかと考えるのである。このように考えすすめると、 白鳥長久は小さな谷地城主ではあるが、その視野は極めて広く、その志は極めて遠大で、さすがに最上義光と共に出羽の双傑と称されるに足る大人物であったと考えなげればならないと思う。

  次にこれら情報活動を助けたものとして、葉山修験或はまた慈恩寺修験の存在を考えてよいのではな いかと思うが、いかがなものであろうか。





三、白鳥長久、織田信長に使いを遣わす
 国騒乱の時代も末期となり、永禄十一年(一五六八)信長入京し、天正元年(一五七三)将軍足利 義昭を追放するに及んで、室町幕府倒れ、同四年安土城を築いてここに移り、着々と全国統一の大業を すすめることとたった。天下の状勢はこれまでの割拠抗争から、漸く信長を中心として統一する方向へ すすみはじめた。全国の大小名はできれば中央の権力者信長に近づき、その庇護のもとに自己の安全を 計ろうとする気運が生じてきた。
 地方の大名が中央の権力者に歓を通じ、官職、領地を確保しようとするなどのことは、以前から行わ れたことで、伊達十二代成宗が文明十五年(一四八三)二度目の上洛の際、将軍義政、その子義尚、夫人日野富子その他へ献上した莫大な進物について、その日記が残されており、そのためとのみは言うこ とができないとしても、成宗の孫稙宗のとき、陸奥国守護職に任命され、大崎氏に代って奥州の支配者 となるのである。

(一)谷地槇家文書
 天正五年(一五七七)七月、白鳥長久は家臣根清光を上洛させ、信長に白雲雀という良馬を献じてそ の機嫌を伺った。信長は大いに喜び、種々答礼の品々を贈り、更に鶴取り、鴻取りの逸物の鷹を所持 していることを聞いて所望してきたことが、槇家所蔵文書「織田信長書翰」によって知ることができ る。
 この「織田信長書翰」は次のようなものである。

「馬一疋白雲省牽上侯、相尋之時分、悦喜不斜候、殊 逸物之間、別而可秘蔵候、仍段子三十局、縮羅三十 端、紅五十斤、虎革三枚、豹革二枚、醒々皮二赤白相送 之侯、猶鷹之事、真鶴取、鴻取所持之段、其聞侯得 ば、鷹も所望候、上着侯はゞ、可悦入侯、猶使者可申 理候也」

 即ち、長久が名馬白雲雀を安土の信長に献じて、誼み を通じたのに対し、信長大いに喜んで虎革以下の莫大の 贈物をして、天下人としての勢威を誇示し、且つ長久に 鶴取り、鴻取の逸物の鷹があることを聞き知って、是非 欲しいと所望されたのである。

(ニ)山辺専念寺文書
 次は、山辺専念寺に所蔵される「白鳥長久書状」である。
 この書状がどのようなわげで専念寺に伝わったものかはよくわからない。そしてその紙面が損じて解読因難で あるが、前述の良馬献上並にそれに対する信長の返簡 (槇氏所蔵)につながるものであることが考え られる。
 解読困難ではあるが、書状の意味はほぼ明らかであ る。即ち信長から所望された名鷹を贈ろうとして行動を おこしたときの書状であろう。そしてその鷹は当時長久 の手許においたものでなく、猛鷹を産した白鷹山に、山 辺在の部将(国衆と称した)をして管理させていたもの と考えられる。そこで長久は信長懇望の旨を使者に含ま せて部将に宛てた書状であると考えられる。
 日附は三月五日で、信長の書簡が天正五年七月十五目 であるので、この書状の三月五目は天正六年と考えられ る。宛名は「国口殿」である。花押には別に意味はない かも知れないが、大方のご批判をお願いすることにし て、しいて私見を入れて解釈してみたい。即ち白鳥の 「白」を基本に、鳥の姿か足跡ともみえる小さた点で鳥をあらわし、縦の線は支域「三つの森」をあら わし、右外側の曲線は最上川をあらわしたものではなかろうか。
 元山形大学教育学部教授工藤定雄先生のご所見によれば、この白鳥長久書状は、天正期におげる中央 と在地とのかかわりを示す珍らしい地方史料に属するものであり、他の例をみていないので、判定資料 もせまいが、まずは信憑性はあるものと考えますといわれております。そして白鳥長久の信長への接 近、山辺在地武将との親近関係などが義光を大いに刺戟してやがて天正十二年、山形城謀殺へと進展す ることになることを考えると、このわずか一通の小さな書状に、大きな感懐のわくを禁じ得ないのであ る。




注)
本文は『白鳥長久公』 (昭和56年 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会発行 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会長著)の記載をもとにサイト作成者が編集したものです。

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