葉山大円院 歴代住職について(作成中)

明治以降

86代 昌諦? 安政文久のころの住職であったと考えられる。市内白鳥の寺院の古文書に、文久二年の前住職の寄付の記録があり昌諦の名がある。経歴については不詳であるが、文久からひきつづき明治初年在任して神仏分離の多難な時代に遭遇したのではないかと推測される。
87代 山形正楽寺 市内白鳥の寺院の住職願の連署に葉山大円院を兼務していた山形正楽寺住職の名がある。
88代 山形宝光寺 同寺が明治18年に天台宗努本庁に提出した寺院明細帳に、大円院住職を兼務してた同寺住職の署名がある。
89代 岩木慈眼院 葉山大円院の領地は、明治三年の上知令によりほとんど上知されたが、明治三十三年の「国有土地森林原野下戻法」が公布され領地の下戻の道が開けた。このとき農商務大臣に下戻申請をした記録にその名がある。(残念ながら、この下戻申請による許可は実現しなかった)
90代 最上郡戸沢村蔵岡大善院 上述の下戻は実現しなかったが、大正二年に境内編入願により領地の一部のみの編入願いを提出している。そのときの住職に名がある。(残念ながら、この編入願いも許可されなかった)
91代 三宝岡風立寺住職 山形般若院に生まれ住職をついだのち明治21年羽黒で寺務をとり三宝岡風立寺住職となった。葉山大円院住職を兼務していたのは大正10年前後とみられている。
昭和29年6月29日付で国有林二百二十七町歩余の保管林設定に成功し当時の寺の財政基盤を確立。ほか葉山復興に多大な功績。晩年風立寺に戻り昭和14年遷化された。
92代 三宝岡風立寺住職 16歳で91代住職の弟子となり葉山に登った。前代は風立寺と兼務であったが、一人で寺を守り葉山の宣布に努められた。昭和14年5月24日付で大円院住職となったが、風立寺で前代の師が示寂されるに及んで、同15年に風立寺住職に転じられた。
93代 山形宝光寺 当時大阪在住。証券会社エリート社員。宗を挙げて由緒ある葉山住職へ推挙された。現地赴任はされなかった。
前住職や寒河江不動院が留守番となった。在任期間は昭和15年2月16日から同16年8月22日。
94代 岡山県の天台寺院の大僧正位 大円院90住職の血縁。山寺立石寺弟師。後長野善光寺につとめる。当時は神戸寺院に勤めていた。平泉千歳師の周旋により葉山の後任を自ら望んで住職となる。在任期間は昭和16年8月から同25年4月まで。実際に葉山に常駐するのは終戦後で、それまでは弟師を留守に置いていた。
このころ大高根射撃場の着弾地として寺の境内は無論、葉山一帯が接収地として収容されるという問題がおこり山への入山や寺への住居が難しくなった。また境内の掃下げ運動が不成就におわり復興の道はなしと考えざるをえず、遂に下山するに至った。師は京都曼珠院執事となり去っていった。
95代 山形宝光寺住職 天台宗山形教区宗努所長。大円院境内譲与申請を行い、境内地約29ヘクタールの譲与の許可され寺有林となった。寺の境内が大高根射撃場に編入されたため、山上での堂宇修履を止め、山麓の表参道口岩野に移転改修。県当局、調達方、地元有志家と接捗をを重ね昭和30年10月26日落慶式を挙げ遷座を完了した。

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